〜 Like a journey 〜

旅するエッセイといろいろ

植物と私

 

植物の気持ちが分かるかもしれない、と自負していた時期があった。「直射日光は避けてください」と注意書きがあれば、日光の下で暑くて辛そうな様子を思い浮かべられる。照りつける太陽の下、日陰のない道を永遠に歩き続けなければならないような、最悪の気分だ。「乾燥したらここまで水を入れてください」とあれば、乾燥しているのを見つけた時、ああ、もの凄く喉が渇いているでしょうに!と申し訳ない気持ちになって、冷たい水を注いであげる。「...んめーっ!」という声が聞こえて来そうな気がするのだ。

 

幼い頃から植物が家にあったせいか、動物や魚を含めた何かしらの”生命”を肩に感じていないと落ち着かない性分に育っていった。そんな癖は私だけかもしれないが、とにかく、”生命”が同じ空間にあるというだけで安心感を得ることができるのだ。植物は文字通りの「植物」ではなく「生き物」であると認識しているから、気持ちを(勝手にだが)察してしまうのかもしれない。やがてそれは良いインテリア、良き相棒となる。

 

小学2年生の頃の担任の先生に、美しくて不思議な話を聞いた。因みにその先生は男性で、怒るとかなり怖かった。何の授業だったかは忘れたが、「花屋の外にある花と中にある花だったら、どっちの方が綺麗に見えるか?」という質問を生徒達に投げかけた。何人かは、太陽に当たるからとか、風が気持ちが良いからとか、小学校低学年らしい答えを出していた。先生はちょっと嬉しそうにこう言った。「惜しいけど、違うよ。外の花は毎日誰かに見てもらって、綺麗だなぁって思われてるからなんだよ。自分が花だったらその方が嬉しいよね?」。私は、そうか!と深く納得した。科学的に解明されているかどうかなんて関係なかった。子供としては、花と同じ気持ちになれば理解し易かったのかもしれない。

 

「植物にも気持ちがある」そんなことを教わったのは、九九を覚え始め、初恋の始まる可愛い少女時代だった。大人になった今でも、その考えと感覚は無意識のうちに染みついている。「心に想うこと」と「想いを行動で示すこと」は、植物に関係なく生きていく上で、結構大事なことなんじゃないかな、とふと気がついた。